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姫津漁港(第2種 新潟県管理)

2011年11月25日
姫津漁港(姫津)
姫津漁港(姫津) 平成22年11月撮影
姫津漁港(達者)
姫津漁港(達者) 平成22年11月撮影
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漁村の歴史

【姫津】
 稲鯨と並ぶ純漁村。
 慶長年中(1596~1615)の1603年佐渡に派遣された大久保石見守長安は佐渡銀山(金山)に鶴子から代官屋敷を移し、食料増産のため石見国の三人の漁師「徳左衛門(とくぜむ)、与左右衛門(よそえむ)、九八(きゅうはち)」を呼び寄せ、達者湊の北にある姫崎先端の澗(たに)を開発、「姫津」と命名し一村を開き、鑑札を与えて専ら海漁に当たらせ、島中どの浦方でも勝手次第に漁を許した。石見の漁師によってもたらされた漁法は鯳(すけと)延縄、サメ網、鱪(しいら)づけ漁などの西国技術で、次第に島内に広まった。集落の6割が石見姓であり、櫓は当地だけが左櫓であることから、西国との関連を窺わせる。
 寛永5年(1628)廻船掛かり澗に指定され、廻船相手の船宿経営も有力な収入源となった。大坂、越前、加賀、和泉、唐津が得意先。
真言宗智山派万福(まんぷく)寺旧蔵の弘化3年(1846)の御案内帳によれば、高15万石3斗余は全て畑。家数126、ほかに毛頭(もうど)11、人数806、沖漁船67艘、烏賊漁船31艘。
 明治以降は樺太、千島、カムチャツカ方面の北洋サケ・マス・カニ工船への出稼者が多く、昭和10年(1935)の遠洋漁業従事者は112人、出稼所得は3万5千円(当時の白米(10 キロ)2 円50 銭)と記録される。
 上杉平定前の天正6年(1578)開基といわれる薬師堂には慶長7年(1602)の棟札が残っており、石見漁師が来る前から村の基盤があったことが知れる。

【達者】
 姫津の南に位置する。段丘上に8反余の広さを持つ「たばせ垣ノ内」の地名がのこり、付近から須恵器が出土。海岸は大湾入港の地形をなし渚辺りは広大な砂浜を造る。浜に釜所(かまんじょ)の地名が残ることから、古代の製塩の釜跡とみる説が多い。製塩土器も出土する。
 口碑に長禄2年(1458)本間源左衛門が大野村から移って村を開き、氏神の白山神社を勧進したという。
 元禄7年(1694)の検地帳にみる屋敷地名は、向川、むかひ、中村、釜屋、大林、鯨がいろ、の六カ所で、釜屋は草分けの垣ノ内農民。向川・中村は中世末から近世初頭に稼行された小筵山(こむしろやま)鉱山によって開発された集落と見られ、また釜屋には本間伝兵衛家、山本小三郎家などの古い系譜を伝える家があり、塩焼きに関係した一族の集落と見られる。
 文政5年(1822)の御巡村御用日記では戸口103軒、440人余。
 南端山麓に湧水があり延命地蔵を祀る。口碑に盲人となった安寿姫の母が、この水で洗ったら目が治ったといい目洗い地蔵の名があり参詣者も多い。
(出典:新潟県の地名 平凡社刊 、 佐渡郷土史事典 小澤三四郎)
追記:「山椒大夫あらすじ」平安時代の末期、平正氏は朝廷の意に反して困窮する農民を救おうとし、筑紫国へ左遷された。妻・玉木と、安寿・厨子王の幼い姉弟は、正氏に会いに行く途中、越後国で人買いに騙され、離ればなれになってしまった。安寿と厨子王は、丹後国の苛烈な荘園領主・山椒大夫に売られ、奴隷としてこき使われるようになる。やがて、成長したふたりは母・玉木が佐渡にいることを知り、荘園から脱走することを考えるようになった。そしてある日、厨子王はついにそれを実行に移す…。
 また一方地元では、その昔、悪者の陰謀で離ればなれになった父を訪ね、遠く越後にたどり着いた母と安寿姫と厨子王丸がいた。母子三人は人買いにだまされ母のみが佐渡へと売られてしまい、母は朝から晩まで働かされ、とうとう目が見えなくなってしまった。人買いから逃れ、母を助けようと安寿姫と厨子王丸は二手に分かれ母を探した。安寿姫は年老いた母を見つけかけよったが、いたずらと勘違いした母は鳥を追う棒で安寿姫を殴りつけてしまった。まもなく安寿姫はその傷がもとで息を引き取り、後に実の娘と知った母はその場に泣き崩れた。せめて厨子王丸に逢いたいと願い、母は相川へと向かい、ようやく厨子王丸に逢うことができた。二人は「逢えて良かった」「達者で良かった」と喜び合い、近くに湧き出る清水で母の目を洗ってあげたところ目が見えるようになったと伝えられている。
 厨子王丸と母が出会った場所が今も「達者」と呼ばれたと云う。