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高千漁港(第2種 佐渡市管理)

2012年01月12日
高千漁港(高千地区)
高千漁港(高千地区) 平成17年11月撮影
高千漁港(石名地区)
高千漁港(石名地区) 平成17年11月撮影
高千漁港(北立島地区)
高千漁港(北立島地区) 平成17年11月撮影
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漁村の歴史

【高千】
 明治10年(1877)高下(こうげ)村と千本(せんぼ)村が合併して高千(たかち)村となる。
 漁港は高下村にある。集落は段丘崖下に形成され、入(にゅう)崎の陰にあって船の澗掛りに適する。背後は近世前半に新田開発が進んだ広い段丘がある。伝弘長3年(1263)の高下村立始由緒書覚によると、承久元年(1219)高野下次郎兵衛が真更川(まさらがわ)(旧両津市)から移住し諏訪大明神を勧請。翌年甲州巨摩(こま)郡(現山梨県)生まれの大平九郎左衛門兄弟が入り、貞応2年(1223)に弟の勘解由左衛門が分家独立。寛元3年(1245)新穂(にいぼ)村(旧新穂村)から飯野三郎右衛門、建長2年(1250)吉井(よしい)(旧畑野町)から平越平左衛門が移住。この5人の開発により村が始まったと伝える。千本村の境に近い中位段丘に古田が並び、段丘奥の仏の平(ほとけのだいら)にある2町歩の田は海府(かいふ)で初めてできた田と言われる。慶長5年(1600)の検地帳では名請人24人、苅高2千30束。元禄7年(1694)の検地帳では名請人51人、田22町余、畑3町9反余。「佐渡国巡村記」には戸口49軒、260人。大平、高下、平越、池田姓が多い。
 浜側の各家は海浜と屋敷境に石垣を築き風波に備えたが、元文元年(1736)の連判証文によれば海が荒れたとき、澗内の船を引き揚げられるよう、門口を9尺開けることを申し合わせ、違反者には地1尺四方につき代銀100目を差し出すことを取決めている。「佐渡年代記」によれば高下浦目付所は寛永19年(1642)には既に置かれ、抜荷、密出国の監視、船澗役銀徴収のため、入川村から岩谷口村までの12ヶ村の取り締まりを行った。後に真更川や矢柄(やがら)村に浦目付所が設置されるに伴い所管区域は縮小となったが、逆に役人を増員し監視体制の充実を図っている。
 千本村の河岸段丘も水田化され、集落は段丘崖下の海岸に沿って集中する。入崎は入川からの土砂により砂州が発達し、沖の岩とつながって陸地ができた陸繋島。近世から海上交通の目印であったが、沖合に浮かぶ沖の神子(おきのみこ)岩周辺は岩礁が多く、海の難所と知られる。
入川村の出村で古くは下入川村と称したと伝える。真言宗智山派薬泉(やくせん)寺縁起には本尊薬師如来は至徳元年(1384)漁夫の網に掛かって引き揚げられ、明徳2年(1391)夏の旱魃に際し、入崎浜へ千本の塔婆を立て、この秘仏を講じて雨乞の法を修めたため、この年から千本村に改めたと伝える。元禄期までに段丘の新田化はほぼ完了し、元禄7年(1694)の検地帳では田16町7反余、畑4町5反余、名請人42人。「佐渡国巡村記」では戸口41軒、245人。武内、東後、京家、小嶽、中浜などの姓が多い。

【石名】
 石名(いしな)村の西の海は冬には北西の季節風が強く海上は荒れるが、村域北端は赤島、黒島、大島などが点在する岩礁地帯で、若布、海苔、アワビ、サザエ等海産物が豊富である。集落は段丘崖下の低地に海岸に沿って連なる。背後の段丘は近世前期に新田開発が進められ、村の中央を流れる石名川以北の低地ともに水田地帯。草分は土屋佐次右衛門で、当家は通称南(みなみ)といわれ元禄期(1688~1704)の名主である。近世初期の中使は安藤甚左衛門家で、通称北(きた)と呼ばれる。慶長5年(1600)の検地帳の表紙に「佐州海府之内石名村」とあり、本百姓18人、苅高3千108束苅。天明6年(1786)の年貢割付証文に小物成は山役、烏賊役、串貝役、若布役、海苔役、山椒役、漆木役。「佐渡巡村記」では戸口54軒、332人。北域の海岸に古墳後期の製塩遺跡がある。

【北立島】
 北立島(きたたつしま)村は海岸沿いの集落背後に二段の海岸段丘が発達して水田が広がる。近世前半までは立島村と称したが、享保(1716~36)初年頃から北立島村の文字が見られるようになり、文政年間(1818~30)以後北立島が一般的になる。中世末までの集落は不動尊(ふどうそん)川上流の中位段丘にあったと考えられ、付近に城ノ下(じょうのした)、塚ノ上(つかのうえ)等の地名があり清水が湧出する。近くには古田の跡が散見される。元禄7年(1694)検地帳では田20町9反余、畑4町4反余。宝暦元年(1751)の村明細帳では人数男119、女117、牛34。山役、械役、たばこ役、番匠役、糀室役などの小物成を納める。藏見、室岩、渡辺、堀川の姓が多い。
 背後にある立島銀山跡は、「高千村史」では開発期を寛永8年(1631)前後とする。明和6年()の村絵図には横地(よこじ)銀山、大宮間山(おおみやあいのやま)銀山が記され、文化年間(1804~18)の佐渡一国海岸図には北立島川上流左岸の大清水(おおしみず)沢に1箇所、右岸の庄司横地(しょうじよこじ)御林の下に2箇所の坑口が見える。明治29年(1896)御料局から三菱合資会社に払い下げとなり、昭和18年(1943)に廃山。選鉱場で選鉱された鉱石は索道で海岸に運ばれ、大島沖に停泊した船に積み込み香川県直島(なおしま)の精錬所に送った。
(出典:新潟県の地名 平凡社刊)
追記:
 昭和21年(1946)1月14日。中国・上海で在極東英国総領事ら8人を乗せ、マッカーサー元帥訪問のため東京に向け出発した英軍輸送機、ダグラスC-47(全長19.43m、全幅29.11m)「Sister Ann(英空軍に供与された機体はダコタの名で運用された)」が途中強風と積乱雲に阻まれて佐渡島上空まで流され、外海府の旧高千村の海岸に不時着した。当時、戦争で肉親を失った村人もおり、敵国感情が未だ色濃く残る中「困っている人を助けるのは世の常道」として、旧高千村の住民約3000人は戸惑いながらも総出で石袋を敷き詰めた仮設の滑走路を造る一方、乗組員らは近くの旅館などに宿泊し、島民から献身的なもてなしを受けた。そして40日後輸送機を再び飛び立たせた。
 また平成22年(2010)春には、搭乗した整備士の長男、クリス・ブライアントさんが住民らに謝意を伝えるため来島した。
 更にこの英国輸送機の搭乗員と住民との交流が映画化される。撮影は平成24年(2012)1月上旬から2月下旬まで行われ、全国公開は9月の予定。監督:油谷誠至さん、主役:比嘉愛未さん(NHK連続テレビ小説「どんと晴れ」主演)、他新鋭の窪田正孝さん、風間杜夫さん、柄本明さんら豪華キャスト。スタッフ約100人、島民もエキストラで参加予定。
(讀賣新聞新潟版より抜粋)
記念碑
記念碑
記念碑に書かれた発起人の名簿
記念碑に書かれた発起人の名簿
拡大
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映画「飛べ!ダコタ」の飛行機搬入
分解されてタイから運ばれてきたDC―3の機体=6日、佐渡市羽茂地区
 佐渡市で来年1月から全編ロケが予定される映画「飛べ!ダコタ」の撮影で使う飛行機DC―3の搬入作業が、6日から同市で行われている。8日までに、100以上のパーツに分解された機体が組み立て作業場に運ばれる予定。製作関係者は、翼や胴体部など届いた機体を見ながら、映画の成功に期待を膨らませた。
 映画は1946年1月に、旧高千村(現佐渡市高千地区)の海岸に英国軍輸送機「ダコタ」(DC―3の愛称)が不時着した実話に基づくもの。製作するハイビジョン映像(東京)は、作品へのこだわりから、不時着したものと同タイプの機種をタイの業者から購入した。
新潟日報2011年12月7日



「飛べ!ダコタ」撮影前に会見
 戦後間もない時期、佐渡に不時着した英国軍輸送機「ダコタ」の乗組員と島民の交流を描く映画「飛べ!ダコタ」で主演を務める比嘉愛未さん(25)らが27日、1月中旬の撮影開始を前に、佐渡市内のホテルで会見した。比嘉さんは「佐渡の皆さんの思いやりの心を表現したい」と作品への思いを語った。
 会見には、共演する若手俳優の窪田正孝さん(23)、油谷誠至監督、製作するハイビジョン映像(東京)の水野清社長らが出席した。
新潟日報2011年12月29日
■「市報さど」(佐渡市行政情報紙)に「飛べ!ダコタ」関連の記事が掲載されました。
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