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新潟県ホーム の中の農林水産業の中の関漁港(第1種 佐渡市管理)
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関漁港(第1種 佐渡市管理)

2010年11月22日
関漁港
関漁港 平成17年11月撮影
関漁港(五十浦)
関漁港(五十浦) 平成11年9月撮影
関漁港(北)
関漁港(北) 平成11年9月撮影
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漁村の歴史

【関】
 関(せき)村の集落は山の崖下から海岸低地にあり、関岬の陰になる入江の北側に、弘法大師修行の伝説がある禅棚(ぜんだな)岩の巨岩が海に突き出る。北の寒戸(さぶと)崎は背後の知行(ちぎょう)山が中世に岩崩を起こし、浜を埋め立ててできた岬で、狢(むじな)伝説を持つ寒戸神社がある。南の関岬は大佐渡山系の山塊が断崖となって海に落ちる巨大な岩山で、禿の高(はげのたか)と呼ばれ、標高は100mを超す。海浜の歩行は全くかなわず、昭和35年(1960)全長427mの禿の高隧道が完成するまで、南の矢柄村からは急勾配の岩肌を登らねばならず、途中に橋掛難所(はしかけなんしょ)という岩の間に丸木を渡した危険な橋が2箇所あるなど交通の大難所として知られた。
 草分は本間四郎左衛門と弟の安藤右衛門三郎(孫左衛門)で、後に二人を頼って11人が移り住んだ。村の古百姓は13人との伝承が残る。「佐渡国寺社境内案内帳」に二宮明神、諏訪明神、十二権現ともに永禄3年(1560)の勧請と伝えるので、この頃に地神を持った各集団によって現在地に集落ができたと考えられる。慶長5年(1600)の検地帳に名請人15人、苅高1千574束苅、加筆に三分一百姓13人とあるのが草分13人衆であろう。寛文2年(1662)の田地苅高名寄帳に名請人23人。元禄7年(1694)の年貢割付では田15町5反余、畑8町5反余。烏賊役、串貝役、山椒役、山役、械役の小物成がある。宝暦元年(1751)の村明細帳には戸口35軒、男112、女115、馬12疋、牛85疋。耕地は禿の高の高頂部の平坦地から斜面、海岸低地にあったが、適地や水源に乏しく新田開発は小規模で、山仕事や海漁に従事する比率が高かった。農閑には男は薪を伐って相川へ売り、女は山野で食物を採集するほか海草を採るとある。

【五十浦】
 五十浦(いかうら)村は山地が住家の裏まで迫り、段丘は200mの高位にある。集落は沖ノ崎と山地に挟まれた狭い崖下に小さくまとまる。水田は五十浦川下流右岸の低地と左岸中流域の高い段丘面にあるが、適地に乏しく面積は少ない。草分は渋谷弥兵衛といわれ、当家は能登天平(てんぴょう)寺(現石川県鹿島郡中能登町)から来た伝承を持ち、持仏の地蔵を祀って古くから垣ノ内(かきのうち)に住む。大家(おおや)と呼ばれ、家の前の弥な清水(やなしみず)は弘法大師が濁水を清水に変えた伝説と豊富な湧出量で知られ、当家の土地拡大と村の新田開発に貢献した。当家のほか垣ノ内を所有する四郎左衛門、与兵衛、五郎兵衛らが草分衆と思われる。
 慶安石直帳によれば本百姓9人、定納石高3石4斗余。弥兵衛が全石高の35%を占める。元禄7年(1694)の検地帳では田5町3反余、畑9反余、名請人15人。延享3年(1746)の宗門改帳では戸口17軒、男67、女56、馬11疋、牛48疋。近年まで木挽、製炭に従事する家が多かった。

【北】
 関村に属し禅棚岩の鍔峰と寒戸崎の間、関川の河口の湊。
(出典:新潟県の地名 平凡社刊)
追記:佐渡には狢伝説が多く、淡路島の芝右衛門狸、香川県屋島の禿狸と並び、日本三名狸に数えられる佐渡国二ツ岩団三郎(旧相川町折戸)を筆頭に関寒戸大杉らの94の神社、社がある(佐渡むじな研究会調べ)。高畑勲原作・脚本・監督の「総天然色漫画映画 平成狸合戦ぽんぽこ」では団三郎が多摩ニュータウンに出張している。