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新潟県ホーム の中の農林水産業の中の粟島漁港(第4種 新潟県管理)
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粟島漁港(第4種 新潟県管理)

2011年09月02日
粟島漁港
粟島漁港 平成22年11月撮影
こちらをクリックすると、漁港の詳細なデータが表示されます(PDF形式  132 キロバイト)

漁村の歴史

【粟島】
 粟島全体を含み、東岸に内浦、西岸に釜谷の集落がある。「粟生島」と記されることもあり「あおしま」とも呼ばれる。万葉集巻12に「波の間ゆ雲居に見ゆる粟島の逢わぬもの故我に寄そる児ら」と詠まれる。「粟島」を当地とする説があるが異論もある。義経記巻7に「青島の北を見給えば、白雲の山腰を離れて、宙に吹かれ出て来る」云々と佐渡へ吹き寄せられたことがみえる。
 近世は始め村上藩領、寛永19年(1642)幕府領、のち上野館林藩預所、出羽庄内藩預所等を経て宝暦3年(1753)以降米沢藩預所。
 宝永元年(1704)頃の村上十五万石御領内諸書留帳によれば、家数97、人数598(うち女291)、商船3、猟船65とある。また化政期頃の粟島図によれば、家数は前浜78、釜谷31、野馬5、60とある。野馬については、源義経が奥州へ落ち延びる途中、馬下(まおろし)(村上市)まで来たが、難所のため馬を乗り捨てた。この馬が粟島に泳ぎ着いたのが始まりとの伝説がある。
 5月から7月に行われる鯛漁の大謀網は漁業組合が経営し、網元・網子制度はなく島の組合員宅から一人参加し、大謀網から得られる収入は頭数で割って均等に配分される。
 オオミズナギドリとウミウの繁殖地は国指定天然記念物。
 曹洞宗観音(かんのん)寺がある。
(出典:新潟県の地名 平凡社刊)
追記:皇居外苑にある楠木正成公銅像の完成は明治30年(1897)、制作は東京美術学校が担当したが、この馬のモデルは粟島の馬との説がある。根拠は明治11年(1878)明治天皇が新発田町(現新発田市)に巡幸された折、粟島の馬を天覧に供することとなった、こととする。
 因みに佐渡出身の初代宮田藍堂(1856~1919)は東京美術学校に招かれ師の岡崎雪声の助手として楠木公銅像の製作に寄与した。初代の三男で二代目宮田藍堂の三男宮田亮平は現東京藝術大学第九代学長である。
 粟島には遅くとも江戸時代には野生馬が生息したとされ、多いときには50から60頭がいたという。明治期に入ると軍馬や農耕馬として本土に売られたりし、昭和7年(1932)に最後の1頭が死んで絶滅した。村では古来生息していた野生馬を復活させる計画が始まった。具体的には国内在来馬に詳しい東京農業大学の川嶋舟講師に協力を仰ぎ、村に埋葬された最後の1頭の骨からDNAを採取し、木曽馬など日本在来馬8種のどれに近いのか鑑定を行い、一番近い種の馬を島に移送して繁殖させ観光資源としたい考えだ。
 平成23年(2011)4月には4500万円で購入した北海道生まれの馬3頭と、その中の1頭「テン」から生まれた「アワ」、6月に群馬県の牧場からきた6頭の計10頭で命の大切さを学ぶ「粟島牧場~島暮らし学校~」と題したキャンプを8月から開き、東日本大震災で被災した子ども達を島に招いた。
 馬は嘗ての村の姿を彷彿させるシンボル。観光に生かすだけでなく、馬とのふれあいを通じて、子ども達との教育に役立てることを目指している。
(前半部分:讀賣新聞 後半部分:朝日新聞 より抜粋)
(追記)
H23新規 村主体「ホースパーク整備事業」