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新潟県ホーム の中の農林水産業の中の鬼舞漁港(第1種 糸魚川市管理)
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鬼舞漁港(第1種 糸魚川市管理)

2010年11月22日
きぶ漁港
鬼舞漁港 平成11年11月撮影
こちらをクリックすると、漁港の詳細なデータが表示されます(PDF形式  345 キロバイト)

漁村の歴史

【鬼舞】
 鬼舞(きぶ)村は鬼伏(おにふし)村に続く北陸道沿いの村で、両鬼橋から東の木浦(このうら)川までの間。後方台地に縄文中期の遺跡があり硬玉原石や玉類が出土する。正保国絵図に村名があり、延宝7年(1679)の越州四郡高帳に高49石8斗余とある。天和3年(1683)の検地帳によれば田方6町2反3畝余、畑方9町3畝余で田畑屋敷色高95石2斗余である。
 鬼伏や能生と同様、江戸時代には千石船を使い、北海道から大阪・九州まで商売し大いに栄えたという。
 鬼谷山西性(さいしょう)寺は信州水内(みのち)郡平出(ひらいで)村(現長野県上水内郡飯綱町)から応仁年間(1467~69)に浄願房樹心が鬼伏に来て開庵し、永禄4年(1561)鬼舞に移り、天正4年(1576)の石川本願寺戦争では鬼舞の浄当坊も参戦、その功により顕如から西性寺の寺号を授かったという。

追記:北の鬼伏(おにふし)村は烏帽子(えぼし)山北西麓が日本海へ迫るところにある崩山(くずれやま)に北陸道に沿って立地し、その昔湊があり大船も停泊できたが、大崩れのため埋没した(頸城郡誌稿)。天正10年(1582)5月26日の上杉景勝過所に「おにふし」の地名がある。
 江戸時代初めから鬼伏辺りの者は千石船を使って北は北海道・千島から南は大坂・九州辺りまで出かけて商売をしたという。越後の米を北海道へ運び、塩鮭・鰊・干鱈・昆布を買って大坂へ運び、塩や砂糖を買って帰り、最盛期には鬼伏、鬼舞(きぶ)、能生で30隻ほどの千石船があり賑わい栄えたという。
 廻船が休みの冬漁として、くるみの場で手繰網による操業をしていた。中宿(なかしゅく)村(現糸魚川市)ではここに底刺網を仕掛けたため、寛延3年(1750)紛争が起こったが、「広き海の儀に候間、相互いに意趣を含み申されず、和順いたさるべく候」と話し合いが着いた。
 幕末には異国船打払令により崩山に大砲を備えた台場が築かれた。
(出典:新潟県の地名 平凡社刊)