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新潟県ホーム の中の農林水産業の中の新川漁港(第1種 新潟市管理)
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新川漁港(第1種 新潟市管理)

2011年09月07日
新川漁港
新川漁港 平成17年11月撮影
こちらをクリックすると、漁港の詳細なデータが表示されます(PDF形式  259 キロバイト)

漁村の歴史

【新川】
 五十嵐浜(いからしはま)村は北西から南西に延びる新潟砂丘上に立地し、新(しん)川が上五十嵐と山五十嵐の境で日本海に注ぐ。
 正保国絵図では高一四三石余、天保郷帳では高九五四石二斗余。漁業が主で、土地の民謡で「佐渡わかめ、いからし干こは砂だらけ」と歌われるように、魚種は主に鰯であった。
 嘉永6年(1853)の村明細帳では、301軒、男一千五七人、女一千七九人で、馬五0疋。馬は七疋が荷馬で他は「為糞取飼置候」とある。
 新川開削に伴う「漁業始迷惑筋」として、毎年長岡藩より60俵、村上藩より40俵の手当米が支給された。
 山五十嵐に真宗大谷派妙音(みょうおん)寺がある。口碑によれば天正14年(1586)加賀国より移ったと伝える。
(出典:新潟県の地名 平凡社刊)
追記:新川は西川と中ノ口川に挟まれた、緩い擂り鉢状地形の底に当たる標高1m以下の低湿地帯の排水幹線で全長約13km、全流域面積274.12平方キロメートル、毎秒240立方メートルの排水能力を持つ新川河口排水機場で洪水調節を行っている。
 近世中頃まで、三潟と呼ばれる鎧(よろい)潟、大(おお)潟、田(た)潟を始め大小多くの潟沼が散在し、ひとたび雨が降れば悪水が湛水し、毎年のように浸水被害に遭った、排水のための掘割開削計画は元文2年(1737)から文化元年(1804)の間に九回の請願が出されたが、いずれも信濃川の減水を恐れた新潟町民の激しい反対に遭い実現しなかった。
 文化四年(1807)、五年と中ノ口川が切れ、三潟地域は連続して水害を被る。大潟口より五十嵐浜村・内野(うちの)村金蔵(きんぞう)坂を掘り抜いて日本海に悪水を放つ計画を立て、既に同二年に測量終えていた中野小屋(なかのこや)村割元伊藤五郎左衛門は長岡藩、村上藩や関係する村と多くの難問を解決し同12年掘割開削計画を長岡藩から幕府に上申させ、同14年に認可された。
 堀割(新川)は4尺以上水位の高い西川を横断するもので、先ず西川の瀬違川(迂回路)を掘って川を回し、干上がった西川底を掘下げ、高さ4尺、幅3間、長さ42間の木製底樋2門を伏せ、3尺の盛土をして新しく西川の川底として、立体交差させた。文政2年(1820)大潟口から河口まで、幅10間、堤防間30間、長さ二千四四九間余の新川が完成した。延べ人数は長岡藩側一一九万人余、村上藩側七九万人余、総工費六万両余であった。
 槙尾(まき)村庄屋中野虎之助の御双領伏替出勤中日記によれば慶応3年(1867)の底樋改修時にホイスト(吸上げ)ポンプが使われたとある。底樋は大正2年(1913)煉瓦及び花崗岩のアーチ形底樋9門所謂「新川暗閘」となり、昭和30年(1954)には37m余の2連トラスの西川水路橋による立体交差に変わった。
(出典:新潟県の地名 平凡社刊)

底樋(水門トンネル)

出典:越後新川町おこしの会
出典:越後新川町おこしの会
出典:越後新川町おこしの会
出典:越後新川町おこしの会
当時の底樋工事の様子(模型) 出典:新潟市歴史博物館みなとぴあ
当時の底樋工事の様子(模型) 出典:新潟市歴史博物館みなとぴあ