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新潟県ホーム の中の農林水産業の中の松塚漁港(第1種 新発田市管理)
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松塚漁港(第1種 新発田市管理)

2010年11月22日
松塚漁港
松塚漁港 平成17年11月撮影
こちらをクリックすると、漁港の詳細なデータが表示されます(PDF形式  359 キロバイト)

漁村の歴史

【松塚】
 藤塚浜村は奥山(おくやま)庄と加地(かじ)庄の境に当たる地で、近世初頭より新発田藩領に属す。明治22年(1889)町村制の施行により紫雲寺村、大島村、松塚村が成立した。
 慶長15年(1610)頃の給知方ほど役帳には藤塚村とあり、商人役・濁酒役が計一石二斗課せられている。
 古くから漁業が盛んで、天保13年(1842)には村松浜など四ヶ村との間に当村が新規に始めた油漬漁を巡り総論となり、油漬漁の場所と時刻を定めることで落着した、とある。
 漁港は落堀(おちぼり)川河口にある。
(出典:新潟県の地名 平凡社刊)
追記:落堀川は約280年前、縦4km、横8km、深さ4mの紫雲寺潟(正保国絵図には塩津(しおづ)潟とあり宝永期(1704~11)以降紫雲寺潟か)干拓の際の放水路。享保6年(1721)3月17日落堀開削に着手、同年5月10日に長さ1600間、深さ7尺の排水堀が竣工し、これを落堀と云った。
 本格的な紫雲寺潟干拓と開発の中心人物は、信濃国高井郡米子(よなこ)(現長野県須坂市)出身の御用硫黄商竹前小八郎宅盤とその兄権兵衛屋栄である。竹前兄弟は幕府の許可を得て実費で、享保13年(1728)落堀拡幅工事に着手、享保18年頃には紫雲寺潟はほぼ安定した干拓地となり、享保20年(1735)検知が行われた。