このページの先頭です メニューをとばして、このページの本文へ
新潟県ホーム の中の文化・芸術の中の世界遺産登録を目指す代表的な佐渡鉱山
本文はここから

世界遺産登録を目指す代表的な佐渡鉱山

2014年06月25日

佐渡の主な鉱山

 佐渡の金銀採掘の歴史は古く、「今昔物語集」(平安時代末)に登場する西三川砂金山の砂金採取が最古とされ、16世紀中頃、露頭掘りによる鶴子銀山や新穂銀山の開発に始まり、相川金銀山の発見に至り最盛期を迎えます。
 江戸時代初期には、最先端の測量、採掘、製錬技術で世界の産金量の約5%にあたる年産400kgの金と、年産37t余の銀を産出し、世界有数の金銀産出量を誇っています。

佐渡には4つの大きな金銀山があります。

西三川砂金山
鶴子銀山
新穂銀山
相川金銀山


※新穂銀山は世界遺産構成資産候補に含まれていません。


西三川砂金山

 佐渡の西側に位置する真野地区の西三川砂金山は、12世紀末に成立したとされる「今昔物語集」に砂金採取が行われていたとの説話があり、佐渡で最も古い金山です。
 天正17年(1589年)に、上杉景勝の家臣直江兼続による金銀山経営が始まると、産出された砂金は豊臣秀吉に納められ、文禄2年(1593年)頃には鉱山の安全と繁栄を願う大山祗神社も建てられました。
 江戸時代に入ると、砂金を採るために、砂金が含まれている山を掘り崩し、余分な石や土を大量の水で洗い流してから、残った砂金をゆり板で選びとるという方法がとられました。この砂金流しに必要な水を得るため、周辺にはいくつもの水路が作られ、最長で9km以上におよぶものもありました。
 1つの稼ぎ場から毎月砂金18枚(180両=約2.9kg)を上納したことから、笹川地区は「笹川十八枚」と呼ばれ、大変な賑わいを見せたといわれています。
 長期的にわたり繁栄を誇った西三川砂金山も次第に産出量が減少し、明治5年(1872年)には閉山となりました。そして、砂金採取を行っていた人々は生活の手段を農業に変えることで現在もその子孫がこの笹川集落に住み続けています。また、現在でも水路跡や受堤跡などの遺跡が良好な状態で残されており、砂金山の中心であった虎丸山や笹川集落の家並みなど江戸時代の絵図とほとんど変わらない風景を今も見ることができます。

 平成23年 9月21日の官報告示により、佐渡市に所在する「佐渡西三川の砂金山由来の農山村景観」が県内初の重要文化的景観に選定されました。
 平成23年9月に県内初の重要文化的景観に選定された佐渡市「佐渡西三川の砂金山由来の農山村景観」の中心的集落である笹川集落に設置されている来訪者のための公共サインがグッドデザイン賞に選ばれました。

鶴子銀山

 鶴子銀山は、天文11(1542)年から昭和21(1946)年まで銀が掘られていました。相川金銀山が開発されるまで佐渡最大の鉱山として銀や銅を産出しました。16世紀中頃に地表近くの鉱石を掘り採る”露頭掘り”に始まり、その後、石見(現在の島根県)から来た山師によって、鉱石採掘のために坑道(トンネル)を掘って地中の金銀鉱脈を探す”坑道掘り”が伝えられると、効率的に多量の鉱石を採取することが可能になり、銀の産出量が飛躍的に増加しました。
 銀山の繁栄に伴い、銀を求めて島外から多くの人や物が集まり、鶴子の鉱山町では家々が建ち並び、物資を搬入する沢根港が整備され、「鶴子千軒」といわれる繁栄期をむかえました。

大規模な露頭掘り跡

鶴子銀山の発見・開発は、島内の鉱山開発に大きな影響をあたえ、相川で大規模な金銀鉱脈が発見されるきっかけとなりました。
 相川金銀山の発見によって、佐渡の金銀山の中心はしだいに相川へと移り、1603年に鉱山経営の拠点であった鶴子の代官所(陣屋)が相川へ移されると、鉱山労働者もしだいに相川へ移っていきました。

大滝間歩 撮影:ⓒ西山芳一  

新穂銀山

 新穂銀山は別名「滝沢銀山」ともよばれ、江戸時代の記録や絵図が残されているものの、発見された年代がはっきりしない古い鉱山のひとつです。しかし中世にさかんに行われた露頭掘りの跡が無数に残されていることや、「百枚間歩」という坑道が存在することから、鶴子銀山とほぼ同じころに銀の採掘が始まっていたと考えられています。
 新穂銀山の鉱脈は、ほかの鉱山と違って、赤土(粘土)層の中にあります。地盤がやわらかいため地表に見える鉱石を効率よくとることができ小規模な開発に向いていました。今でも山中には露頭掘り跡・間歩跡などが残り、山師の名前にちなんだ「大和屋敷」、鉱山大工が住んだ「大工沢」など銀山に関係する地名も残されています。

百枚間歩



相川金銀山

 1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、相川金銀山の本格的な開発を開始し、佐渡は江戸幕府の直轄地となりました。1603年に家康は、現在の島根県にある石見銀山を治めていた大久保長安を佐渡代官(のちの佐渡奉行)に任命し、石見や甲斐などから山師(やまし)と呼ばれる鉱山経営者を集め、最先端の測量・採掘(坑道掘り)・製錬(灰吹法、硫黄分銀法、焼金法)技術を導入して開発させました。また、鶴子にあった奉行所を相川に移し、計画的な町づくりが行われ、鉱山への道路や港が整備されました。金銀の産出量は最盛期を迎え、1610年~1630年代には、1年間に銀を1万貫(37.5トン)も幕府へ納めたことが江戸時代の記録に残されています。
 しかし、17世紀の後半になると、しだいに質の良い鉱脈の少なくなり、坑道も深くなるにつれわき出てくる水の処理が難しくなり、金銀山の生産も大きく落ち込むようになりました。そこで坑内に溜まった湧き水を海に流すため、当時の佐渡奉行、荻原彦次郎重秀はわずか5年で開削し、全長1.1kmの南沢疎水道を完成させました。この疎水道の貫通により坑道を埋めていた水は海に流れ出し、良質な鉱石のある坑道での採掘が可能になり金銀の生産は再び増加しました。
 その後、18世紀後半以降は、新鉱脈の発見もなく、鉱山は徐々に衰退していき、復興するためには新しい技術の導入が必要とされました。
採掘から小判製造まで行った鉱山は国内でも佐渡だけであり、その工程を鮮やかに描いた鉱山絵巻が100点以上現存します。絵巻からは鉱山技術や鉱山経営の変換を詳細に辿ることができます。

南沢疎水道

【道遊の割戸】
 相川金銀山のシンボル「道遊の割戸」は、江戸時代に稼がれた道遊鉱脈の露頭堀り跡です。金堀り大工の握る鏨(たがね)が、長い年月に山を切り崩し、二つに断ち割ったものです。(国指定史跡)

道遊の割戸

【佐渡奉行所跡】
 慶長8年(1603年)に大久保長安によって鶴子から現在の地に移されました。18世紀半ばに町のあちこちに分かれていた選鉱・製錬施設を1カ所に集めた寄勝場が建てられ、佐渡の鉱山経営と行政の中心地となりました。佐渡奉行所は平成12年に安政年間当時の姿が復元されています。(国指定史跡)

佐渡奉行所跡