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新潟県ホーム の中の文化・芸術の中の明治以降の佐渡鉱山
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明治以降の佐渡鉱山

2014年04月11日

明治・大正の佐渡金銀山


 明治に入ると政府は、積極的に西洋の技術を取り入れ、各分野の近代化に乗り出します。佐渡金銀山も1869(明治2)年に政府直営となり、政府主導による鉱山の近代化が図られました。この時期、外国人技術者が佐渡鉱山に赴任し、火薬によって鉱石を爆破する火薬発破法や運搬用にトロッコの導入、貴金属鉱山として日本で最初に導入された西洋式垂直坑道(大立竪坑)などの西洋技術を伝えました。
 また、さまざまな機械が導入されると、新しい動力として蒸気機関が用いられるようになりました。そこで政府は、赤谷炭鉱(新潟県新発田市)や油戸炭鉱(山形県鶴岡市)を開発し、蒸気機関の燃料である石炭の安定供給を図りました。
 1885(明治18)年、日本の近代製鉄の創始者といわれた大島 高任(おおしま たかとう)が佐渡鉱山局長に就任し、高任竪坑、大間港の建設などを手がけました。 

大立竪坑

 その後、ドイツのフライベルク鉱山学校留学後に東京帝国大学の教授となっていた渡辺渡(わたなべわたる)が技師として相川へ赴任、国内初の架空索道(ロープウェイ)、間ノ山搗鉱場などが建設され、佐渡鉱山は大きく発展しました。
 この時期の佐渡鉱山は、国内の「模範鉱山」とされ国内の鉱山・大学や朝鮮国から留学生が訪れ、佐渡鉱山学校も開設されました。
 1896(明治29)年、皇室財産となっていた佐渡鉱山は三菱合資会社へ払い下げられ、引き続き日本の発展に貢献しました。また、動力も蒸気から電気に転換、1908(明治41)年には北沢火力発電所が建設され、さらに1915(大正4)年には、戸地川に水力発電所が完成しました。
 
 坑道内の照明は、明治初期からカンテラが使用されていましたが、カーバイト(炭化カルシウム)を使用するアセチレン灯が佐渡鉱山で改良され、その後全国各地の鉱山、更に台湾でも採用されていきました。

アセチレン灯


【間ノ山搗鉱場】
 渡辺渡によって建設された製錬施設。品位によって選別された鉱石は、搗鉱場まで運ばれ、最新のカルフォルニア式搗鉱機によって粉砕されました。現在は、側壁と床の基礎部分だけが残っています。

間ノ山搗鉱場

昭和の佐渡金銀山

 1937(昭和12)年に日中戦争が始まると、海外からの物資を購入するために、政府は重要鉱物増産法を制定し、各地の鉱山に対して金銀の増産を命じました。この時佐渡鉱山でも、高任粗砕場、貯鉱舎、北沢浮遊選鉱場、50mシックナ-などが新設され、金銀の増産に乗り出しました。これらの増産政策により1940(昭和15)年には佐渡金銀山史上もっとも多い、年間1,537kg の金を生産しました。しかし、海外からの経済封鎖が次第に強まると、金銀に変わって銅、錫、鉛、鉄、亜鉛などの戦略物資を優先して生産するようになり、1943(昭和18)年に国内の金銀山は次々と閉山へと追い込まれました。佐渡鉱山からも多くの施設・設備が供出されましたが、鳥越坑から銅が産出されたため、かろうじて閉山を免れることができました。
 1952(昭和27)年に佐渡鉱山は、大縮小を行い従業員数の数を10分の1に減らし、海面下の坑内採掘場はすべて閉鎖しました。その後、一時的に活況を取り戻したものの、鉱脈が枯渇したため1989(平成元)年には操業を中止し、休山となりました。

高任粗砕場

50mシックナ- 

北沢浮遊選鉱場